#蟹工船 1929
#小林多喜二 1903(明治36)-1933(昭和8)
#岩波文庫
本日は選挙日ですね。
自分の生きる環境・社会を変えたいと思ったら選挙権使わない手はありません。
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目を背けたくなるような日本の黒歴史。戦地の兵隊も悲惨だったが、労働者も悲惨だった。しかし立ち返って見れば、現代社会においても起こりえる、起きているかもしれない労働者の過酷な実態。
▶︎名もなき労働者たち
小説は「おい地獄さ行くんだで!」で始まる。
その言葉のとおり『蟹工船』の地獄図絵が展開される。
『蟹工船』の残酷な実態が生き生きとした筆致で描かれている。小林多喜二26歳の作品。
主役はいない群像小説。名前がつけられているものは非道な監督の浅川以外、労働者は数名だが出番が多いわけではない。漁夫、雑夫、学生、水夫、火夫と職名で呼ばれている。
『蟹工船』という歪んだ資本主義の構造自体が主人公というべきか。
▶︎「蟹工船」とは
蟹工船博光丸は400名もの乗組員を乗せて函館を出帆し、オホーツク海、カムチャッカ付近を航海している。蟹工船は「川崎船」8隻のせており、漁夫たちは川崎船にのってカニを漁猟する。船上にカニを缶詰めにする工場施設がある。
ロシアの領海に侵入して漁をすることもあり、日本の「蟹工船」に対するロシアの監視船に出会うこともある。
▶︎斬新な比喩表現
「二人はデッキの手すりに寄りかかって、かたつむりが背のびをしたように延びて、海を抱かかえ込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾つばと一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹サイドをすれずれに落ちて行った。」
「納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。」
▶︎労働者を虫けらのように扱う浅川
博光丸と並んで航行していた秩父丸からSOSが入り、船長が救助に向かおうとすると、浅川は救助に関わるとこちらの漁が遅れる、秩父丸は保険がかけられており沈んだら得をする、といってそれを阻止する。
秩父丸から何度も必死な打電が入るが、博光丸は助けにいかない。「沈没です!‥。」無電係は伝えた。「乗組員四百二十五人。最後なり。救助される見込みなし。S.O.S、S.O.S、これが2、3度続いて、それで切れてしまいました。」
——もっともやりきれない場面の一つ。
また、あるときは海に突き出ているウインチに雑夫を20分も吊り下げた。
漁夫たちは何日も続く過労や脚気のため限界にきていた。
ある日脚気で寝たきりになっていた27歳の漁夫が死んでしまう。浅川はまるでゴミでも扱うかのように新しい麻袋があるのに古い麻袋に死体を詰めて函館に連れ帰ることもせず海に棄てた。
▶︎全員で決起する
行方不明になっていた川崎船が何日かたって、意気揚々と帰ってきた。彼らはカムチャッカの岸に打ち上げられて、ロシア人家族に救われたのだった。彼らはそこに2日間いて、地獄のような蟹工船に戻りたくなくなったが、社会主義思想を吹き込まれ戻ってきた。
そして、乗組員たちは我慢の限界に達しストライキを起こす。
最後の付記に記された顛末で、いくらか溜飲が下がる。
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