#不条理な論証
#カミュ
▶︎真に重大な哲学上の問題
それは自殺ということだ。
人生が生きるに値するか否か、人生の意義を判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。
あらゆる本質的な問題について、ー本質的問題とは、ときにひとを死なしめるかもしれぬ問題、あるいは生きる情熱を十倍にもする問題をいうのだがーおそらく思考方法はふたつしかない。ラ・パリス的な思考方法とドン・キホーテ的な思考方法とである。つまり明証性と情熱的態度との均衡によってのみ、ぼくらは感動と明晰とに同時に至ることができる。
ここでまず問題にしようとしているのは、個人の思考と自殺との関係である。自殺という動作は、偉大な作品と同じく、ひとの心の内部で準備される。
では、どのような感覚が自殺へと向かわせるのか。説明できる世界は、親しみやすい世界だが、反対に、幻と光を突然奪われた宇宙の中で、人間は異邦人と感じる。人間とその生との、俳優とその舞台との断絶を感じとる、これが不条理性の感覚である。
この試論の主題は、まさしく、不条理と自殺との間の関係、自殺がどこまで不条理の解決となるかということである。
▶︎≪体をかわす≫とは
「たくみに体をかわす」動き、それは希望である。死後にもうひとつの生を「ご褒美として生きられる」ようにならなければいけないと考えて、そのもうひとつの生を希望する、いやそれは希望というよりはむしろ欺瞞だ、生そのもののために生きるのではなくて、生を超えたなんらかの偉大な観念、生を鈍化し、生にひとつの意義をあたえ、そして生を裏切ってしまう偉大な観念のために生きている人びとの欺瞞なのだ。
(「狭き門」のアリサのような人のことを言っているのだな)
人生が生きるに値しないから人は自殺するのだ、これは自明の理である。しかしこのように生存を侮辱し、このような否認の中へと投げ込んでしまうのは、生存にはいささかも意義のないということから由来するのか。生存の不条理性は、ひとが希望あるいは自殺によってそこから逃れることを要求するものなのか。これこそ何よりも優先すべき問題である。
この問題を考えるには不条理な論証によるしかないが、この論証をきびしくつらぬくには真の努力が必要だ。
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